のつづきです。
思えば、
母は幾度も驚異的な回復力を見せ、
奇跡の生還を遂げてきました。
70歳で
卵のサルモネラ菌にあたった時も、
80歳で
クモ膜下出血を起こした時も。
けれども
今度は
目を覚ましてくれませんでした。
2016年5月9日朝6時の
グループホーム職員の呼びかけに、
「はーい。」と返事し、
お布団に包まれながら
そのまま逝ってしまいました。
シニアハウス時代、
気難しかった母は、
グループホームに移動してから
ピンク色のほっぺたの
やさしいおばあちゃんに
なっていました。
グループホームの
職員の方たちが
口々に
こうおっしゃいました。
「おやさしい、
善い方でした。」
なんともうれしい、
ふわりと心の軽くなる言葉。
お官もピンクを選び、
お化粧をきれいに施した
母の最期のお顔は、
それはそれは
愛らしかった・・・。
父から差し伸べられた手を
しっかりと握って、
母が天国へ行く姿が
見えるような気がしました。
母を見送り、やがて少しずつ、
わが身と夫婦の暮らしを
振り返りました。
幾度も
大病に打ち勝ってきた母は
きっと100歳でも
元気でいるだろうと
心して、
鹿児島に居を構えました。
ワタシたち夫婦は
心を合わせて、
日米の行き来を実現し、
ともに
介護に向き合ってきました。
しかし、
もしもこの時介護しか
していなかったとしたら・・・
生活のすべてが
「介護」だったとしたら、
今のワタシは
存在していないでしょう。
母の介護が始まってから
すぐに
仕事の再構築を始めました。
覚悟していた
認知症発症に伴う、
癇癪や徘徊にも
まっすぐに向かい合いました。
母の現状が
厳しくなればなるほど、
ワタシは仕事に励みました。
おしゃれを心がけ、
好きなモノに囲まれ、
部屋には花を欠かさず、
にっこりと
いつも微笑みを絶やさぬことを
心がけました。
長期戦を覚悟し、
勉強をして
資産の運用にも励みました。
ワタシには、
母の介護のことを相談できる
血のつながった家族はいません。
いるけれど、いない。
存在するけれど、相談ができない。
気持ちの問題だけ
ではなく、
介護には
お金の問題が付きまといます。
それを
100%ひとりで行うということは、
今までにない
緊張を強いられるのです。
「ご主人がいるでしょう?」
いいえ、
主人との生活費に
負担をかけることは
できません。
諸々の事情や取り決めの中で、
思ったことはただひとつ。
これは、チャンスだということ。
すべて、
新しいことを学ぶ
チャンスなんだということ。
よって、悲観することなく、
なぜと悩むこともなく、
ただただ
自分の役割を受けとめよう。
そのうえで、
活かそう、進もうと思いました。
介護離職が
社会問題となっている今、
逆に仕事に助けられた現実は
結果、
母にとっても
よりよい時間を持つことができた
と思っています。
介護の経験から
介護する人と、される人の
関係を整える大切さを
学びました。
そして
それは自分自身の
心の声を聞くことから
始まるということも
大きな学びでした。
母の介護をしようと
決めたのはワタシでした。
やらされている、
やってあげている・・・・・
そんな感情は皆無。
それでも、
時に身体は、警告を鳴らすのです。
ありがたいことに、
今何をしたらよいか、身体が
教えてくれるんです。
「メディカルアロマ」を取り入れて、
心身を整えました。
何が起こっても、
同時進行で行うことができました。
可能にするためには
何が必要なのか?
まっすぐに
心に響く経験の数々が、
その答えを持っていたんですね。
・・歩み⑥ 終わりは始まり